ディアとアルフの、人間対犬という奇妙な争いが始まって、しばらく経ったころ。
サンガーデンに珍しく、サラが立ち寄った。
時折近くを散歩していることはあるが、サンガーデンに寄ることはほとんどない。
「いらっしゃい、珍しいわね」
笑顔で迎えるケティだが、それに反し、サラの表情は硬い。何か考えているように見えるが。
「…………」
黙ったまま適当なテーブルについたが、そのままじっとしているだけで、注文をする気があるのかどうか、分からない。このままでは思いっきり営業妨害だし、気にもなるのでケティはサラに声をかけることにした。
「ねえ、どうしたの?」
「…最近」
唐突に、サラは口を開いた。その表情はとても真剣で。
「犬の様子が変じゃないか?」
「犬?」
犬、とだけ言われてもケティには何が何だか分からない。そこらへんの野良犬なのか、はたまた牧場の犬なのか。
「トーイの飼ってるアルフだよ」
「ああ、確かにそうね。最近、ディアと派手に火花散らしてるってジーナから聞いたことがあるわ」
買出しで一緒になったとき、ポツリポツリとジーナが言った言葉を思い出す。
―トーイさんの飼われている犬がお嬢様に向かって吠え立てるんです…。お嬢様は何もしていないのに…。それどころか、最近は私にまで吠え立てるようになり…、この間は噛まれそうになりました…。……ええ、トーイさんが叱ったので、その時は大人しく引き下がってくれてんです。
「そういえば、ジーナも最近はアルフから吠えられてるらしいわ。アルフって女の子が嫌いなのかしら?」
冗談で、本当に冗談のつもりで言った。笑いながら、だった。けど、サラはとても真剣な表情で。
「…アタシもやられそうになった」
そう言った。
ケティ、数秒硬直。そして、笑顔のまま、こう言った。
「…トーイに手を出したの?」
思いっきり、テーブルにサラは突っ伏した。ゴゥンッ、といい音がしたので額へのダメージはかなりのものだろう。
「そういうわけじゃない。ケティだって、誰かと擦れ違ったら挨拶くらいするだろう?」
「ええ、するわよ」
「だから、アタシはトーイと会ったから挨拶をした。その後、馬の調子とか、少し話し込んだけど、それくらい誰だってするだろう?」
サラとトーイが草競馬のタイムを競いあっていることはケティも知っている。だから、挨拶ついでにそのことに関して話し込んでも、別におかしくは無い。
「そしたらアルフの奴、いきなり吠え出して噛み付いてきたんだよ」
「ダークの調子はいいよ。今の調子なら良いタイムが出せるよ」
「自信があるみたいだね、けど、それがハッタリじゃなきゃいいけど」
「あはは、今のうちに練習しとくといいよ。最速の座を取り戻す為に」
「バウバウっ!!」
のほほんと二人が話し込んでいると、それを邪魔するようにアルフが吠え始めた。
それだけでなく、グルルルと唸りだし…、サラに噛み付こうとした。が、
「こらっ、アルフ!!」
寸でのところで、トーイがアルフのバンダナを引っつかんで止めさせた。
そのままアルフを持ち上げ、視線を合わせながらキッチリと叱った。
「アルフ、駄目だろう!?何もしていないのに、いきなり吠えるのは。それに、噛み付いたら駄目だよ!怪我をさせちゃうだろう!?」
トーイ自身はちゃんとアルフと目を合わせながら言ったのだが、アルフは視線を逸らして、サラを睨んでいた。負けじと睨むと、すぐに飼い主の方に向き直ったけど。
しばらく宙ぶらりんのまま、アルフはトーイに叱られていたが、サラにしてみれば、全然アルフが反省したようには見えなかった。
「ってな感じでね…。アンタも注意するんだよ」
サラとしては、本気でケティのことを案じて言ったのだが、ケティ自身はそこまで深刻に受け止めてはいなかった。
大げさだなぁ、と思っていた。
その翌日の月曜日。定休日が晴れている時は、ケティはいつもプラリネの森まで散歩に行く。その日は、いつもと変わらない日…だと思ってた。あんな光景に出くわすまで。
「あれ、どうしたの、ジーナ?」
別荘の庭で、掃除をしているジーナの手には包帯が巻かれている。
「あ、ケティ…」
いつもと変わらない、おどおどした様子のジーナ。
が、その手の包帯はとても痛々しい。
「どうしたの、その手?」
「えと、その…、トーイさんの犬に噛まれて…」
「ええ!?本当なの!?」
「はい、そうです…」
瞬間、ケティがキレた。
人に怪我させるなんて、ちゃんとしつけしてないの!? そんな人に動物を飼う資格なんてないわ!!
「トーイってば何やってるのよ!?ジーナ、黙っていないで文句言いに行きましょう!!」
グイグイとジーナの手を引っ張り、ケティは行こうとするが…
「…手、痛いんだけど…」
ちょっと涙目になってジーナが言った。実際、包帯巻かれた手を強く握られたら痛いと思う。慌ててケティは手を離した。
「それに、トーイさんは私に噛み付いたアルフを剥がしてくれたし…、トーイさんは悪くないと思う…」
ジーナ曰く、トーイと話をしていると、突然アルフが噛み付いてきたとのこと。直前まで大人しくしていたので、二人とも気がつかなかったらしい。慌ててトーイがアルフを引き離し、物凄い剣幕でアルフを叱った。そして、ジーナの手の傷を消毒し、包帯を巻いてくれたらしい。
「何故、いきなりアルフが私に噛み付いたか、私にも分からないんです…。トーイさん自身も、分からないって言ってましたし…」
そう言われて、トーイとアルフのことを思い浮かべるケティ。トーイは確かにアルフを可愛がっているが、ちゃんと悪いことをしたら叱っていた。だから、村人相手に吠えたり噛み付いたりなんてことは今まではなかった。
「…確かに…」
アルフは元は野良犬だが、トーイに懐いてからはすっかりと大人しくなっている。それが急に凶変するものだろうか?
「でも、お嬢様が噛まれていないだけいいと思います。お嬢様がアルフに噛み付かれたら、大変ですから」
あまり気の合わないディアなら噛まれてもいいけど…、とケティはちょっぴり思ったりしたが口にはしなかった。流石にジーナが怒るだろう。
「とにかく、アルフには気をつけたほうがいいわね。あたしも注意しておいたほうがいいかしら?」
「念には念と入れておいたほうがいいと思います…」
「そうね」
それからしばらく、雑談に興じてから、ケティはプラリネの森を後にした。
アルフを連れたトーイと出会ったのは、職人小屋の前だった。今日も森で木の実や花、薬草を取りに来ていたらしい。
「こんにちは」
「どうも。散歩の帰り?」
「ええ、そうよ」
ケティとしては、話をさっさと終わらせる気は無かった。サンガーデンに立ち寄った時でさえ、ロクに話をしないで出て行くことのあるトーイと話をするチャンスを逃したくはなかった。
「あなたは、いつも通りに木の実取り?」
「そうだよ。ベリーベリーやブルーベリーはジャムにすると高く買い取ってもらえるから」
実際には、一番高く売れるブルーベリージャムはほとんど売らない。大抵、ディアにあげてしまっているらしい。こんな調子で大丈夫なのかぁ?と時折ケティは心配になってくる。
「そういえば、ジーナに噛み付いたらしいわね、アルフが」
そのことを告げると、トーイは困ったような表情になり。
「あー…あれは悪かったって思ってるよ。まさかアルフがいきなり噛み付くなんて思いもよらなかった…、って、こら、アルフ。ズボンに噛み付くな」
足元に視線を移せば、アルフはトーイのズボンに噛み付き、さかんに引っ張っている。まるで早く帰ろうと言わんばかりに。よく見ると、トーイのズボンの裾は、アルフに噛まれた跡が結構ある。
「ごめん、このままだとアルフに千切られそうだし…。じゃあね」
済まなそうに言うトーイに、内心の不満を表に出さないように気をつけながら、ケティは笑顔で見送った。
一瞬だけ、アルフがこっちを振り向いたような気がした。
その翌日、サラがサンガーデンに現れたのは、時計が三時になるかどうか、という時間だった。
「あ、サラ。聞いてよ!」
挨拶もせず、いきなりそう言いだしたケティに一瞬戸惑い…、とりあえず話を聞くことにした。
「あのね、昨日、家に帰る途中でトーイにあったんだけど、アルフが邪魔したのよ!噛み付いたりとかはしなかったけど、もうずっごい勢いでトーイのズボンに噛み付いて、引っ張っていこうとするの。そのせいで、全然トーイと話が出来なかったのよ!」
息をつく暇も与えずに、凄い勢いだけでケティが言う。が、サラは至極冷静に、
「噛み付かれなかっただけ、マシだろう?アタシなんて噛まれそうになったんだし」
「ジーナは噛みつかれてたわよ」
ポツリと言ったつもりだが、思いっきりサラには聞こえていた。
ひどく驚いた様子で、
「ジーナが噛まれたのかい!?」
と、本当に心配そうに言った。ケティはあっけらかんと、
「ええ、そうよ。ただ、そこまで酷い怪我じゃないって、言ってたわ。手の皮が破れたぐらいだって」
「なんだ…、てっきりアタシは包帯でグルグル巻きにして、しばらくは絶対に動かせないほどに酷い怪我をしたのかと思ったよ…」
ほっと胸をなでおろすサラ。
「でも、水仕事がやりにくいって。傷口が完全に塞がるまで、水がとてもしみて、痛いって言ってたもの」
「そうかい…。それにしても、アルフは一体どうしたんだろうね?」
「さあ…、あたしも犬のことはあんまり…。ねえ、おじいちゃん」
カウンターの奥のウォールに声をかけるケティ。ウォールはいつものように、柔和な笑顔で、「どうかしたのか?」と尋ねてきた。
「あのね、最近、トーイの飼ってる犬の様子が変なの。いきなり吠え出したり、噛み付いてきたり…。おじいちゃんは、心当たりない?」
しばし首を捻って考えるウォールだが、ケティの望む解答は返ってこなかった。それどころか、
「アルフの様子も、何もおかしいところはないよ?昨日も、トーイくんが近くを通った時、すこしオヤツをあげたけど、いつものように喜んで食べてたしね」
と、ウォール自身はアルフの様子が変なことさえ知らないようだ。
ウォールはまだボケていないし、手などにも怪我はない。嘘をついているわけではないようだ。むしろ、そんな嘘をついたところで何のメリットもないが。
「あれ?じゃあ、おじいちゃんとトーイが話してるときに、アルフがトーイのズボンに噛み付いたことは?」
「いや、なかったよ」
即答されてしまった。つまり、アルフはディアだけでなく、ジーナ、サラ、ケティにも敵意を持っているがウォールに対してはない、ということになる。
しばらく考えてみるが、ケティ、サラ、ウォールはその理由が全く分からなかった。
急速に、犬と人間の関係は壊れてゆく…。被害者はまだ一人だが、また、いつ増えるかどうか、わからない。
―・―・―・―・―・―
あとがき
第二章です。仁義無き争いというより、犬の勝手な思い込みによる争いはまだまだ広がっていきます。第三章はライラが目標にされてしまいます。と、言ってもそんな手荒な手段をアルフは使いません。敬愛する飼い主、トーイから噛み付いたらいけないと口を酸っぱくして言われてるんですよ。…実際は牧物らしくないからですけどね、流血沙汰って。